緒方貞子さんが亡くなられました。
92歳だったそうです。
緒方貞子さんといえば、もちろん名前は存じ上げていて、
国連で活躍された方で、日本女性初、くらいは、なんとなくは知っていました。
が、生い立ちや経歴、家系など、あまり詳しいことは知りませんでした。
お亡くなりになられたということで、改めてその功績等も調べてみました。
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緒方貞子の生まれや生い立ち
1927年9月16日、東京府東京市麻布区(現東京都港区)に生まれる。
父、外交官、元フィンランド特命全権公使の中村豊一と、
母、恒子夫妻の長女。
父の転勤で幼少期をアメリカ・サンフランシスコ、中国・広東省、香港などで過ごす。
小学校5年生の時に日本に戻り、聖心女子学院に転入。
祖父は犬養毅、元首相。祖父が貞子の名付けの親だったそうだ。
犬養毅といえばNHK大河ドラマ「いだてん」にも出てきた、
「五・一五事件」で命を奪われた首相。
「五・一五事件」
1932年(昭和7年)
海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団が襲撃する。
この時、有名な文句「話せば分かる」を言う。
が、襲撃者たちは犬養に重傷を負わせ、立ち去る。
女中たちが駆けつけると、犬養は血を流しながらも
「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と述べたという。
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緒方貞子の学歴・経歴
聖心女子大学文学部英文科を卒業。
その後、父のすすめで留学
アメリカのジョージタウン大学 大学院(国際関係論)修士終了
アメリカのカリフォルニア大学バークレー校 大学院(政治学博士課程)博士終了
その後、
国際基督教大学非常勤講師を経て、国連の道に進むようになる。
1968年:国連総会日本政府代表顧問
その後も大学の准教授や、教授を務めながら、常時、国連の職務や、国際協力機構の職務
にあたっていく。
1991年:第8代国連難民高等弁務官に就任
2003年:国際協力機構 (JICA) 理事長就任
緒方貞子の影響や功績は
1991年の国連難民高等弁務官に就任は、
日本人として初、そして国連でも女性として初でした。
防弾チョッキを身につけ、現地に赴き、援助にあたる緒方貞子さん
緒方貞子の前例に縛られない決断
緒方さんが就任してすぐ、湾岸戦争が勃発( ぼっぱつ)
多くのクルド人が、トルコに向かって避難。
ではトルコが入国を拒否したため、
多くの人々が国境近くに残ることになってしまった。
つまり国外に逃げられず、国内に残ってしまったのだ。
当時、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)では、
他国へ渡った難民の保護は行なっていましたが 、
国内の難民の保護はしていませんでした。
その時緒方さんは
「国境を越えたら支援する、国境を越えないなら支援しない」では問題は解決しない。
「人命を守ることが何より大切」という考えで、
UNHCR内で議論を重ね、とうとう支援することを実現したのです。
緒方貞子の人道援助の政治からの独立
1992年ボスニア紛争が始まりました。
UNHCRは食糧の供給をしようとしました。
ところが、空輸までは出来ても、その後トラックで、現地に運ぶことができません。
道を封鎖されてしまうのです。
政府が、敵対する勢力よりも、
自分の側の勢力に多く物資が運ばれるように、仕向けようとしたのです。
緒方さんは、「もし道路を封鎖するのであれば、全ての救援活動を直ちに一時停止する」
と発表。
人道支援を政治から、引き離したのです。
難民キャンプの治安維持
1994年、アフリカのルワンダで民族紛争が怒りました。
100万人規模のルワンダ難民がザイールに流入。
難民キャンプが作られ、食料支援が行われました。
ただし、キャンプの中には武装集団に居た人も混ざっていました。
治安維持が重要です。
緒方さんは、国際社会に協力を求めましたが、
非常に危険な任務、それを引き受けてくれる国はありませんでした。
だがついに、ザイール大統領とアフリカ諸国の力を借り、
キャンプの治安維持にあたってもらうことに成功。
緒方貞子さんは「人命を救うための最善の選択」という基準のもと、
状況に応じて柔軟に判断を行ってきました。
また、各国政府の支持をとりつけるなど、史上初めての援助方法も実現させました。
難民問題と平和構築を世界中に訴え続けたのです。
緒方貞子の子供や夫は
緒方貞子の息子 ー 緒方篤
映画監督、脚本家、ビデオアーティスト、俳優です。
日本で生まれ、一時、米国で育ちました。
ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学を卒業しています。
オランダ、ドイツ、日本、米国で活動しています。
緒方貞子の夫 ー 緒方四十郎
銀行家。
東京大学法学部を卒業し、日銀に入行。
日銀理事、日本開発銀行の副総裁などを歴任。
2014年、86歳で亡くなりました。
緒方貞子の生まれや生い立ちと学歴・経歴!影響や功績は?子供や夫は まとめ
緒方さんが初めて国連の仕事についたのは1968年。
今から半世紀も前のことです。
現代ですら、日本で女性が社会(仕事の場)で、生きていくには、
難しさを感じることが多いと思います。
私自身もそうでした。
それが、50年も前に 国連に入り、
そして国連でも初の女性の国連難民高等弁務官となり、
自分の信念に基づき、国連の新たな境地を見出して行ったなんて、
すごいですね。
私のような一般的な家庭の出身者とは違うとはいえ、
やはり勇気をもらえます。
そして、ご結婚もされ、お子さんもいらっしゃる。
さらに息子さんの職業は、ご両親とはまた全く違った
映画監督という道。
自由な家風だったんでしょうね。
ご冥福をお祈りします。
では、最後まで読んでいただき、ありがとうございました!!
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